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トイアンナのぐだぐだ

まじめにふまじめ

愛する人を、死なせてあげられなかった。家族を看取る前に知ってほしいこと

「死にたい」と祖父母が言い出したのは、10年前のことだった。

 

「もう十分生きたんだよ。」

戦争の不安に晒されながら、防空壕で『アンナ・カレーニナ』を抱えて夢を見たという。学徒出陣も当たり前になる世間で、軽い障害で逃れていた兵役に、いつ自分も呼び出されるだろうかと怯える日々。玉音放送を聴きながら「これで死ななくて済む」と安堵したそうだ。

その後の彼は、帝国主義はもうたくさんだとばかりに共産主義へ傾倒した。そのおかげで「教育は男女平等に受けるべきだ」と小さいころから絵本を読んでもらい、手作りの参考書で初等教育を叩き込まれた。私はすっかりおじいちゃん子になった。

毎日散歩を欠かさず、ロシア語の文献を読む。時には論文を投稿していることもあった。体も頭も動かしていたからか、男性にしてはかなり長寿だった。

 

それでも、体が壊れる日は来る。祖父が脳梗塞を起こした。祖父母の家の近くに住んでいたのは私だけだったので、退院後は私が一番会話していた気がする。

祖父は会う度に「死にたい」と言った。

最初はうつ病を疑ったが、どう見ても彼は理性的だった。これ以上不自由を味わうくらいならもういいんだ、と。私に彼を止める言葉は無かった。

 

それから祖父は淡々と、身辺整理を始めた。私が欲しいと言っていた本をくれた。相続の書類を第三者にわかりやすいよう整理した。葬儀社を調べて位牌の材質まで指定した。脳梗塞を起こして1年後、祖母の老老介護に限界が訪れたので介護施設へ入所し、穏やかに過ごしていた。

 

祖父が肺炎になって、もって3日だろうと連絡があったのは仕事中だった。とても重要な会議の真っ最中だったのに、手が震えてキーボードが打てなくなった。上司がリモート勤務を認めてくれた。

 

「肺炎なんて風邪みたいなものです、すぐ直りますよ」と励ます声に、祖父は「高齢者の死因3位だね」とデータに実証されたコメントを残して、家族を黙らせた。それから「もういいよ、十分生きた。頼むから、延命治療は一切しないでくれ」と、数年前から繰り返した言葉を伝えた。

 

果たして3日後、祖父は生きていた。家族が、延命治療を決断したのだ。

 

祖父が最終的に患った間質性肺炎は、息を吸っても吸った感じがせず、常に息苦しいのが症状だ。吸っても吸っても、酸素が届かない。真っ白な顔で、胸部が上下に激しく動いていた。目が留まることなく、ぐるぐる宙を舞っていた。エクソシストのようだった。

 

こんな姿になった祖父を見るのが苦しくて、涙がバカみたいに出た。それでも祖父の眼球は止まらなかった。私のことを判らないくらい苦しんでいるようだった。吸っても酸素が手に入らないなんて、ずっと溺れているのと同じだ。そんなときに、家族の声なんて悠長に聞いていられるか。

祖父はそれから2週間苦しんで、死んだ。

 

祖父が肺炎になってから、2度会えた。けれどもそのうち1度は会わなくてもよかった。苦しむ姿を見るくらいなら、本人が望むように死なせてあげればよかった。もう何年も死にたがっていた人の、願いを叶えてあげられなかった。

 

この件で、家族を責める気にもなれない。激務で倒れてからも2度しか会いに来なかった孫と違って、親族は入退院の手続きも全てやってくれた。目の前で看病していたら、少しでも長生きしてほしいと願うのは当然のことだ。

「何で私、働いてるんだろう」

と、自分のやりがいばかり考えて、東京から離れたことを後悔した。あの時、延命治療を止められるならニートでもしていれば良かった。その後、祖父が亡くなったショックで祖母が認知症を発症したのも堪えた。女の人って、夫が死んでもパリっとしてるものじゃなかったっけ。

 

新卒の会社を辞めるときに理由は複数あったが「祖母こそは、望むように死なせてあげたい」と思ったことも大きい。それから専門知識をかじって、医師は訴訟リスクを遠ざけるために延命治療をせざるを得ないこと、死は敗北だと捉えられていることを知った。

家で死にたいとリビング・ウィルを書いたって、いざ倒れた日に家族が救急車を呼べば管まみれの「患者」が誕生してしまう。胃ろうだって、家族の意思で取り付けられてしまう。かかりつけ医と契約しないまま家で心肺停止したら、変死扱いで解剖されてしまう。

 

愛する人を望むように死なせてあげたいなら、倒れる前に知らなくてはいけないことが多すぎる。足りない知識を今さら埋めながら、少しでもその事が広まれば嬉しい。