トイアンナのぐだぐだ

まじめにふまじめ

「圧倒的成長」ができる会社で頑張ったら、転職できなくなっていた。

成長をうたう企業には、大きく2種類あります。会社の成長をうたう企業と、人材の成長をうたう企業です。このうち、会社の成長はわかりやすい。会社の成長は売上&利益の成長だからです。しかし、「人材の成長」はどうでしょうか。成長という単語はキラキラした響きとは引き換えにその実がはっきりしない言葉です。成長するって、どういうことなんでしょうか?

私は成長の意味を何も考えず、就職した人間でした。「どの会社でもエリートとして活躍できる人材」になれると信じていました。入社してすぐ、山のようなプロジェクトに回され、翻弄されながら「これが圧倒的成長につながる!」と信じました。土日も、盆も正月も働きました。でも大丈夫でした。周りもみんなそうだったから。

でも私はきっと「圧倒的成長」をするのに足りた人間ではなかったのでしょう。魔がさして、転職エージェントにコンタクトしてしまったのです。そこで聞かされたのは「今でよかった。御社へ5年以上勤めていると、あまりに他社との適性がなくなるからお断りするんですよ」の言葉。

私の成長は何のためだったのだろう?

ぐらっときました。社内政治が見えるようになりました。「誰に媚びれば会議がすんなり通るか」は知っていました。宴会芸もブラッシュアップされて、洗練かつゲスな技で笑わせられるようになっていました。土日に会議へ出るタイミングも完璧でした。でも、それは成長だったのか。成長とはもしかして「会社の文化と相性がよくなる」だけじゃないか。

そうなると納得がいきます。日本人の子供は、たいてい幼少期に箸の使い方を学びます。箸を使いこなせるようになった子供を見て、親は成長を実感するでしょう。でもそれは単に日本の文化へフィットしただけです。イスラエルで生まれた子供が箸を使えても、それは成長ではないでしょう。

成長とは、ある文化に適応するだけなのです。

しかし「成長したい」人はそう思いません。成長することで人生がベターになって、幸せになれると思っています。特に私のような、浅はかな新卒の学生にとってはそうです。若いうちに激務にさらされ、成長する。でもそれはある文化に必死で食らいつく所作でしかありません。激務耐性は強くなるかもしれませんが、それはあなたの「成長」なのでしょうか?フィットできる場所で、頑張っただけではないでしょうか?

そう思った時に、会社で頑張ることをやめました。不思議と頑張らなくなればなるほど、成績は伸びました。きっと会社にとって私の相性が良かったのでしょう。そして、限りなく成長できるはずの会社を私は辞めました。

でも「圧倒的成長」を売りにする会社に私は惹かれ続けました。「成長」と言うと、なんだか少し自分がマシな人間になった気がするから。でも、本当は自分が素晴らしいかどうかは、自分の心で判断してあげなくてはいけないのです。会社の業績で自尊心を手に入れる限り、どうせ幸せにはなれっこないのです。

誰かのうたう「成長」に踊らされる限り、本当にどこでも通用する人材にはなれっこありません。自分の成長は、自分で決めてあげなくてはいけないのだから。でも、会社や偏差値の定めるわかりやすい「成長」に私たちがどれほど弱いか。もしかするとそんな弱さのおかげで、私たちは生きているのかもしれません。