トイアンナのぐだぐだ

まじめにふまじめ

【メシマズの子】料理下手な親を"生き延びた"15年間を振り返る

私がメシマズ嫁かもしれない理由7つ」を読んで、フラッシュバックに襲われた。かつて食べたマズ飯の数々が脳裏を走馬灯のように駆け巡ったので死期が近いのかと勘違いしたが、画面から目をそらして自宅がいつもどおりなことを確認し、ほっとした。

 

「メシマズの子」として育った記憶は痛みを伴う。

自分の親がメシマズと気づいたのは、8歳になるころだった。物心ついたころには母が料理をしなくなっていたので、気づくのが遅くなったのだ。

私が生まれたての頃は料理をしていたらしい。しかし、父が私の寝姿を見て何気なく呟いた「この子はよく寝る子だなあ」という一言に、母が「よく眠れるよう、哺乳瓶のミルクにブランデー少し入れてるのよ~」と笑顔で返してから様相が一変した。母はメシマズ・ヒエラルキーの頂点にいる『健康被害を起こすアレンジャー』だったのだ。

 

☆楽しいメシマズ用語辞典【アレンジャー】
料理のレシピを勝手にアレンジして、とんでもない創作料理を起こしたり、時には食した人間の体調に影響を及ぼす人間を指す。文例:「妻は--なので、赤い絵の具をエビチリへ加えた。」

 

したがって小さい頃はコンビニ飯をルーティーンで食べる・もしくは外食しか経験がなく、友達の家へ遊びに行っては「○○ちゃんのお母さん、料理作ってる!羨ましい!」とショックを受けていた。学校では「外食しかしてない」と喋ったところ「家で食べないほどお金持ちの家」だと勘違いされてしまったため、メシマズ家庭だとは露呈しなかった。


そんな母がある日、父の出張中なので「今日はカレーを作ってあげるね」と言い出した。私はスキップして帰った。今日は手料理だ!他のお母さんのおうちと同じように!

一口食べてすぐ吐いた。

カレー色にまぎれて、得体の知れないものが入っていた。かみ締めるとあふれ出る酸味。たぶん、ミカン。加熱されたミカンはビタミンを失い、ただのエグみを残していた。かき回すと出てくるわ出てくるわ、目玉焼きに生のブロッコリー。親を責めたが、

インドカレーのデザートといえばヨーグルトとフルーツだから加えた」
「玉子を入れたらカレーは美味しくなる」
ブロッコリーは定番の野菜」

しまいには「好き嫌いなんてワガママ言っちゃいけません。全部食べなさい」

と言われ、お話しにならなかった。

 

それ以来私は家の食事を極力避けるようになった。共働き家庭だったので、親はこれを歓迎した。運が悪いと忙しさのあまり忘れられてご飯抜きになったが、ミカンカレーよりは良かった。日本の給食制度には感謝しかない。

それでも、母が料理をしたがる時があった。父の友人が家に来るときだ。その時くらいは妻としての威厳を見せねばなるまいと思うのだろう。そのたびに父と私は魔法の呪文を唱えた。

「「お母さん、今日は焼肉が食べたいなっ!!!」」

焼肉はカレー以上に失敗がない。なにせ焼くのは自分だからだ。こうして私は今では焼肉マイスターと言われるほどの網奉行となり、1度だけ数週間前の肉まん(肉ですらない……)を焼肉へ勝手に加えられトイアンナの一族は滅亡の危機に陥ったので、父は冷蔵庫管理大臣の職務を今も忠実にこなしている。父、命の恩人である。


ティーンエイジャーになると、ひとりで行動できるようになるので親も私の飯など用意しなくなった。朝起きれば1000円が置いてあり、コンビニを来る日も来る日も歩く幸せな日々だった。

それでもたまに「今日はお母さんが料理作ってあげる」ルーレットにぶちあたることがあり、そのたびに醤油だけふんだんにかけられた生キャベツ1/4とか、道端の雑草を詰んで入れた「七草がゆ」が罰ゲームのように巡ってきては私を苛んだ。

 

『この家を出よう』

自立心はおのずと高まり、メシマズへの抵抗を含む反抗期を迎えて私はこの家を出た。16歳の頃だった。しかし、地獄はここから始まった。


親元を離れて全寮制の高校へ進学したはいいものの、その日の晩御飯から私はつまづいた。なにせ家で料理するシーンをめったに見てこなかったので、基礎知識が全く無かったのだ。野菜って洗うものなの? まず買うべき調味料は? 「湯がく」ってどういう動作なの? 下茹でってなに?

 

全てが新しい外国語を習うように手探りだった。「米をとぐ」ことが水を一度吸わせた米を指で握るようにしながらかき混ぜる動作であること、味噌汁には「ダシ」と呼ばれるものが入っていて、それが味の根源であること。食材には旬があって、旬の時期に食べると格別に美味しいこと。

 

何が苦しいって、こういうことはレシピ本には何も書いてないことだ。平気で「玉ねぎを弱火でキツネ色になるまで炒め」「アクを取ったら落し蓋をして」など、料理以外で見ない単語が説明なく出てくる。キツネ色?アクって何?落し蓋??? 辛うじてあったネット回線と家庭科の教科書が命綱となった。数年後、私は「茶ぶりなまこの酢の物」や「ヒラメの昆布〆」ができるくらいには成長した。


その数年後、私は実家へ帰省した。料理を両親に振舞いたいと楽しみに帰った。田舎は野菜が美味しいから、秋茄子をお浸しと浅漬けにしよう。鴨肉を薄切りにして網で炙って柚子胡椒で食べたら、残りは締めのお蕎麦にでも追加して……。

 

その夢はすぐについえた。実家には塩も胡椒も、フライパンも無かったのだ。「だから、作ってくれたのがカレーや粥だったのか。」納得したら、なんだか笑えてきた。


「アンナちゃんはすぐにお母さんの料理がまずいって言いがかりをつけてひどーい!たまに失敗してただけじゃない」

ラバウルでおじいちゃんはね、どんな草でも美味しく食べたって話よ?」(※私の祖父は満州にいたので、全部母の妄想である)

 

と、かたくなに自分のメシマズを否定していた母。数年前に姑のレシピを教わって感動したらしく、それ以来少しずつレシピに忠実な料理を始めた。齢65にして料理デビュー。まだ市販のトンカツに玉子をかけて「即席カツ丼」が作れるようになったくらいだが、まともな手料理に父は嬉しそうだ。

 

私も10代の頃は親の料理を呪ったものだが、結果として早く家から自立でき、必死で料理を覚えた。今では食べ歩きが趣味となっている。「料理上手な人」が付き合う男性のデフォルト条件に入ったので、食に恵まれた恋愛をした。

メシマズの親元に生まれたって、まあなんとかなるもんだ。防腐剤たっぷりのご飯で育ったので私の体は死後も腐らないだろう。郷里の味が恋しくなっても、徒歩5分でどこかのコンビニにたどり着く。何なら企業努力によって「郷里の味」は美味しくなるいっぽうだ。私はオーガニック信者でもないので、こんな食育も良かったかなと思う日もある。

 

だが、この世のメシマズ嫁・婿を正当化はしたくない。私はたとえ子を産んでも、決して母の家には預けないだろう。私が耐えられたからといって、自分の子供に同じ思いをさせたいとは思わない。「メシマズ嫁」になるということは孫に会えないことだと伝われば、危機感に繋がる・だろうか。