トイアンナのぐだぐだ

まじめにふまじめ

社会の底辺から階層を上ると、努力しない底辺が許せなくなる

社会の底辺の人とは関わってはいけませんという記事が挙がった。内容はざっとこんな感じだ。

 第1階層 上級公務員、経団連加盟大企業勤務者、難関国家資格、成功した起業家。配偶者含む

第2階層 2流中規模会社勤務者。2流公務員

第3階層 中小企業勤務者、ニート

第4階層 フリーター、非正規社員派遣社員、飲み屋、風俗嬢など売春婦

唐突ですが、第4階層の人とは、口聞いちゃダメです。理由は、頭が悪いからです。第2の理由は、貧乏だからです。そういう人が正常な精神状態を保てるわけがありません、なにをするかわからないのです。

 第1階層だけなぜ配偶者込みなのか、ニートがフリーターより上にあるなど突っ込んだらキリがない。

実はこの筆者、別の記事で自分自身が第4階層の出身だと明らかにしている。

私は大学受験も失敗してすべて不合格になり一年浪人をして偏差値40の女子大へ進学しました。非正規労働者です。
当初、時給900円のバイトとして採用されたのです。

つまり、彼女自身が軽蔑していたのは第1階層の夫に恵まれるまでの、過去の自分。それを知ったとき、思わず声が出た。

 

「生存者バイアス」という言葉がある。

苦労して立身出世した人が、自分の目線だけで成功体験を語ることだ。時には、他人の不幸を努力不足と判断してしまう弊害もある。有名なものではワタミの創業者による「無理というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんですよ」といった発言がある。

おそらくブログの執筆者は彼女なりの第1階層へのぼりつめるまで努力されたに違いない。そして努力した自分に比べると、もともと自分がいた第4階層はいかにみじめで怠惰に見えただろうか。そんな生存者バイアスが「底辺階層の人は、ほとんど一生底辺階層です」という強い発言に表れている。彼女の目から見て、第4階層の知人は許せないほど努力不足だったのだ。

 

彼女の環境は詳しく知らないが、私も階層を上がったと言えるかもしれない。最初に育った環境は笑えるくらいひどかった。親からの待遇が悪かったうえ、学校もイジメの楽園だった。

特に覚えているのは、いじめっ子が同級生を脱がせ、背中に円をマジックで描いた日のこと。何をするのかと思ったら、その子を押さえつけてダーツの的にした。コンパスがダーツ代わりだった。その子はしばらくして一切他人と話せなくなり、学校へ来なくなった。私の初恋の相手だった。

別の子は臭いからといじめられていた。シャワーが家にないと言っていた。服もボロボロで、生活保護にすらアクセスできているか怪しかった。その子へ普通に話しかけた私も分かりやすくいじめられたが、掲示板へ「いじめは犯罪であり、警察や教育委員会へ訴えます」と張り出した。

 

しかし職員室へ呼び出されたのは私だった。「いじめている方の子もいろいろあってね、許してあげてほしいんだ」と教師は言った。その子が母親からひどく虐待されていることを聞かされた。

出口がなかった。誰も幸せな子がいなかった。こんな場所にいるのは嫌だった。早くここから抜け出して、初恋の子も一緒に引っ張り出したかった。私はこれまでにないほど勉強して私立中学へストンと入学した。

  

20歳のときに成人式で同級生に会った。少年院にいたので出席できない子もいた。あとはニート。努力の末に挫折し、罪悪感と闘っているニートじゃない、高卒でジョブレス、親にお金をもらって暮らすだけ。逮捕された子は銅線を盗んだらしいが、すでに銅線がどこに行けばあるのかピンとこないほど私の世界は隔絶していた。

彼らの世界は止まっており、変わらず私は「臭い女に触ったからいじめられるべき人間」だった。私が触れた食べ物は誰も手を付けられなかった。えんがちょー。マジかよ。あれから人間として1ミリも成長してないなんて、いくらなんでもバカじゃないの? ああ、この人たちと関わりたくない。

 

そのとき私ははっきりと自分がいた世界を軽蔑するのを感じた。南スーダンへは寄付できるけど、こいつらは助けたくない。だって、努力せず底辺にいるこいつらなんて許せない

 

かくして生存者バイアスに乗っ取られた私を救ってくれたのは、皮肉にも数年後にやってきた自分の精神疾患だった。当時の私は男へ貢いだ挙句5股をかけられ、精神がミンチ肉のように千切れていた。

心から余裕がなくなると、クレジットカードの金額すら計算できない。コンビニの店員にすらイライラする。犬が吠えているだけなのに、自分が責められている気持ちになって怒鳴り返したくなる。

当時の自分はまるで、あの時のいじめっ子そのものだった。思いやる力も、現状分析も愛情とお金がなくては無理だった。精神的に追い詰められすぎると誰しもこうなるのか。そう気づいてから、同級生への恨みが減っていた。

 

冒頭の彼女と同じような例を、のちに就職した外資系企業でも多く見た。鬱に倒れる社員を「あいつは無能だから」と切り捨てる社員は、まさに生存者バイアスの塊だった。そうして切り捨てた社員自身が、翌年には鬱になって消えていった。

私は鬱にならなかった。運が良かったのだ。人生最初の上司が面倒見のいい人だった。数えきれない運と人様の助けで偶然にも私は生存した。ただそれだけだ。

 

努力は無駄と言いたいのではない。たとえば中学受験で努力したのは私だ。繰り上がりの足し算すら嫌いなのに中学受験を乗り越えた。当時の自分に会えたら思い切り褒めてあげたい。けれど私立中学が近隣にあったことや、進学費用があったことは?
初恋の子は今も人とうまく話せない。中学校へ通っていないので学力は小卒レベル。今から高認を受けるにせよ死ぬほど忍耐が必要となる。彼女と私を分けたのは努力ではなく運だろう。 

努力は運をつかむための入場券のようなものだ。努力なしに結果は手に入らない。だが努力する力すら奪われている人を罵倒しても何も生まれない。彼らを責めても、かつての自分を傷つけるだけだ。

 

もしあなたが、自分の運命は努力で変えられると思うなら、その感覚は生存者バイアスの始まりである。自分の人生はある程度変えられる。けれど結果にはいつも、周囲の人や運が必要で、それを持っていない人もたくさんいるのだ。