トイアンナのぐだぐだ

まじめにふまじめ

愛の期待値が高すぎる

愛にみんな期待しすぎなんじゃないか、と最近思います。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

(コリント人への手紙I 13:4〜8)

 

 キリスト教の愛って、こんな風にすごく重いです。といっても、重いのは当たり前。だってこれは「神の愛」だからです。神の愛はこんなに素晴らしいんだよ、という愛は、重くて当たり前です。

 

で、これくらいの重みをみんな「人」に求めちゃってない?

というのが、最近思うところです。

 

私は仕事柄、毒親、婚活、恋愛経験ゼロからの恋人づくり、既婚者の家事分担など、多種多様な相談をいただきます。もちろんまっとうな相談が多いのですが、中には「相手に期待しすぎているせいで、苦痛が増えているパターン」も多いんじゃないかと。

 

meetech.jp

 

この記事にも書きましたが、「愛されない」と悩む人は往々にして、愛の定義が超厳格です。

たとえば「自分が気になっている人から、猛烈にアプローチされる」ことを、"愛されている"の定義に置いている人はとても多いです。それって、自分が100人に出会っても1人しか気にならないなら、その時点で愛される確率は、天文学的な数字になっちゃう。

 

また、自分がどんなにひどいことをしても、許してくれる人こそ自分を愛していると思っている人もいます。泥酔して迷惑をかけつづけたり、モラハラをしたり、時には暴力を振るったりしても許してほしい。そんな気持ちが生まれてしまう。

こういう人は、限界を迎えた相手が逃げ出してしまうのですが、そうすると「やっぱり私は・俺は愛されなかった」と絶望します。

愛されていなかったわけでないのに、愛ではどうにもならなくなるまで相手を傷つけたのは間違いなさそうです。

 

人間の愛は、無限ではありません。しかも理不尽です。介護で愛が消えていくこともあるし、1回の浮気でざっと冷めてしまうこともある。理不尽な理由から冷めることもあれば、好みの外見が変わってしまう日だって来る。

 

愛にできることって、そんなにないです。むしろ妄執とか性欲とかと結びついて、台無しになることも多々あります。「それは愛じゃない」なんておためごかしは、やめましょう。愛は簡単に尽きるし、善意だけではできていません。

 

なのに、どこかで我々はキリスト教的な神の愛を、人に求めていないでしょうか。私もそうなのですが。これは私自身の自戒を含めた、備忘録です。