トイアンナのぐだぐだ

まじめにふまじめ

感じたことを書いて、人生の音に耳をすませる

感じたことを書くのが苦手です。

 

私が文章の書き方を最初に学んだのは、高校の卒業論文

20ページはあろうかという書き方マニュアルには、論文として成立させるための条件が並んでいました。

 

私が日々書いていることが"論文"の要件を満たすとは言えたもんじゃありませんが……。

「主張をするなら、その根拠を書くこと。根拠はできれば統計や実験データに基づくこと。データがないなら、最低でもヒアリング調査を入れること」なんて原則は、私の体にばっちりと沁みこんでいます。

 

恋愛コラムでも、基本的にはヒアリング調査をして……なんてことを繰り返していたら、話をお伺いした数が1,000人を超えて。いよいよ私の文章は、論文じみてきました。論文じみた体裁の裏で、言いたいことをぶちまけて、いっそ欺瞞じみてきました。

 

そして感じたことを、そのまま書くことが、どんどん苦手になってしまいました。

このままではいけないと思って、感じたことを書きたい。 

 

たとえば、世界には薄い膜がはってあることとか。

10年以上感じてきたことなのに、うまく言葉にできませんでした。

 

そう、世界には薄い膜があります。

みんな、言葉を薄い膜に乗せて話しています。だから話題は膜の上で"はずむ"のです。

 

膜を張るのが苦手な人もいます。

舞い上がった言葉が、なけなしの風を失ってぽとりと落ちるとき。

 

落としたひとが「しまった」という顔をして、何もかもが台無しになって。

 

周りが"この人は会話をはずませるスポーツが下手なんだ"という目ではなくて、こいつは劣っているのだ、という目を向けるのを、じっと見ていました。

 

いつかこのスポーツの人気が、なくなればいいなあ、と思っていました。

 

わたしは膜を貼るのが苦手で、そのへんは小学校あたりでもうあきらめてしまったので、排斥されることもそれなりにあったけれど「膜がないねえ」と面白がってくれる人がいて、動物園の珍獣として生きてきました。

 

もっと正直に言うと、膜が苦手なだけじゃなく、きらいでした。

だって膜は「会話を続けるスポーツ」なので、手段はどうしてもいいのです。

 

嫌われ者を作って椅子を投げつけるのも、他人の膜が破れていると笑うのも、これまた良いことなのですが、私は耐えきれずに膜をバリバリさいてしまいました。

 

でも、指を真っ赤にするまで力を入れ、膜を張る方にだって事情があります。

 

椅子を投げつけてでも、膜を学校で張りつめていないと、家ではズタズタに引き裂かれているのかもしれません。私だって、自分の膜を守るために人を何度も繰り返し、傷つけてきました。

 

 

それでも、会話の中で膜を必死に広げて、張って、盛り上げようというあの熱狂的なスポーツが、どうしても好きになれないのです。

 

そういう感じたことを、感じたように書く訓練を、今年はしていきたいと思います。

 

 

こうすると、世界に満ち満ちた音が、よりよく聞こえるようになります。

この音を完全に失っては、いけないような気がするので。

 

今週のお題「2020年の抱負」